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米百俵の群像について(トップページ写真)
 この群像は、いまも長岡に伝わる「米百俵の群像(クリックで大きな画像)米百俵の精神」を、山本有三の戯曲「米百俵」の一幕から再現したものです。
 北越戊辰戦争で焦土と化した長岡に、支藩の三根山藩(現在の西蒲原郡巻町峰岡)から見舞いの米が百俵送られてきました。食べるものにもこと欠く長岡藩士たちにとっては、のどから手がでるほど欲しい米でした。しかし、時の長岡藩大参事小林虎三郎は「食えないからこそ、教育をするのだ、学校をつくるのだ」と米を売り払い、その代金を国漢学校にそそぎこみました。
 この故事は「目先のことにとらわれず、明日のために行動する」という精神風土を長岡に根づかせ、未来を担う新しい世代を育む思想の源泉となりました。
 群像は「米を分けろ」と迫る人々に虎三郎が切々と説いている場面です。かたわらの少年は、「米百俵の精神」を引き継ぐ新しい世代を象徴しています。
 長岡の誇る「米百俵の精神」が連綿として伝えられることを願って、この群像を建立しました。
   「米百俵の群像」より

関連リンク
米百俵の精神(長岡市)
米百俵はこちらからどうぞ!
 
まちなか散策:国漢学校と米百俵(長岡市すずらん通り商店街)
http://www.suzuran-st.com/sansaku/school-100rice/school-100rice.html

長岡市章
小林虎三郎
 戊辰の戦いの終わった翌年1869(明治2)年、小林虎三郎、三島億二郎らは、士族の師弟を四郎丸の昌福寺に集めて国漢学校を開設しました。1870(明治3)年、牧野家の分家、三根山藩主から長岡藩主へ見舞いとして米百俵がおくられてきた。
 長岡藩では、この使い方について相談したが、小林虎三郎の「食われねばこそ教育する」という主張を入れ、学校設立の基金に当てることにした。この基金により国漢学校は新しい場所(現大和デパート)に校舎を建て、より充実した教育を行うことができた。学習内容は、国学・漢学・地理・科学などであった。この学校は、1871(明治4)年の廃藩置県で柏崎県の管理となり、それと同時に長岡小学校と名を改めた。
 一方、町民も教育の重要性を考え、星野伊三郎、大橋佐平、太刀川文吉、松田周平らの先覚者の努力により、旧長岡町会所跡に長岡市中学校(または私学校とい呼ぶ)を設置し、読み書き、算術を教えた。
 その後、1872(明治5)年、士族と町民の融和と経費を節減する目的で、旧国漢学校の長岡小学校と合併し、長岡学校と呼ぶ学校となった。
 1872(明治5)年、三島億二郎、稲垣林四郎、加藤一作、大橋佐平、星野伊三郎らで長岡洋学校を設立し、福沢諭吉門下の藤野善蔵をまねき、時代の動きにならって西洋の学問を取り入れようとした。
 最初の入学者はわずか7人であったが、しだいに入学者もふえ、多くの人材を世におくった。

長岡市教育委員会資料より

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